2016年4月26日火曜日

中国史/古代/夏・殷・周

STEP 1            

  1. 実在が確認できる最古の王朝は殷王朝。 
  2. 殷王朝は「占い」によって人々を支配した。 
  3. 周王朝は「封建制」によって人々を支配した。 

STEP 2            
 
 歴史書『史記』によれば,始皇帝が中国を統一して「帝国」を建設する前に,夏・殷・周という3つの王朝がありました。

  • 夏:前2070〜前1800/伝説の王朝
  • 殷:前1600〜前1046/実在の確認できる王朝
  • 周:前1046〜前256

 夏 

」は禹を始祖とする王朝です。
『史記』を信じれば,「中国史上初の王朝」になります。しかし,その実在を裏づける考古学的証拠はなく,教科書では「伝説の王朝」と位置づけられています。大型の宮殿遺跡で知られる二里頭遺跡が「夏の王都のあとではないか」と言われていますが,万人が認めているわけではありません。現在,実在が確認できる最古の王朝は「殷」です。


 殷 

」は湯王を始祖とする王朝です。
 殷の実在を裏づけたのは,豊富な「甲骨文字」資料です。
 甲骨文字とは,亀の腹甲(おなか側の甲羅)や牛の肩甲骨などに刻まれたもので,内容は占いです。まず甲骨に円形のくぼみをうがち,その片側にアーモンド形のみぞを彫ります。そのみぞに占い師が焼けた木片や金属片を押しつけると,「ぼくっ」という音とともにひび割れが生じます。そのひび割れを見て吉凶を判断するのが殷王の仕事です。ちなみに,このひび割れと音をもとにした象形文字が「卜(ぼく)」です。最後に,占いの日付,占い師の名前,占いの内容,王の吉凶判断,占いの結果を,甲骨に彫り込んで記録しました。占いの内容は,祖先祭祀,戦争,田猟,収穫状況,天気,疾病など,ありとあらゆる方面にわたっていて,殷の王が何かにつけて神(鬼神)におうかがいを立てていたことがわかります(おかげで,殷王朝の実態を占いの記録からかなり復元できるわけですけど)。そうした宗教色の強い政治を神権政治と呼びます。

 殷は「邑制国家」と呼ばれます。とは,城壁で囲まれた都市や集落を意味し,中では氏族共同体が暮らしていました。氏族とは,共通の祖先を持つ集団です。とりあえず「○氏一族」と考えてよいです。殷は「大邑商」という巨大な都市国家と,それに従属する小さな邑〈=都市国家〉とで構成されていました。1つの国家というよりも,むしろ邑の連合体のようなものです。殷王は,周辺の邑に対して頻繁に「田猟」〈=軍事演習〉を行って軍事的に威圧するとともに,繰り返し祭祀を主催して「霊的威圧」を加えました。殷は青銅器の鋳造技術と文字を独占していました。他の邑の氏族は青銅器も作れなかったし,文字の読み書きもできなかったのです。祭祀をするには青銅製の祭器も文字も必要ですから,殷だけが祭祀を実施できました。殷に逆らう=神に逆らうことを意味するので,誰も歯向かえませんでした。


 周 

」は武王を始祖とする王朝です。
『史記』によれば,武王が殷王朝最後の王「紂王」を破り,殷王朝を滅ぼして周王朝を開きました。中国では,王朝交代のことを「革命」と呼びます。西洋史の「革命revolution」とはだいぶ意味が異なります。代々王位を世襲してきた殷の家系は「子」姓で,新しく王になる周の家系は「姫」姓でした。革命によって王朝が子姓から姫姓に交代するので,これを「易姓革命」と呼びます。「易姓」とは,「姓を易(か)へる」という意味です。
 周の国家体制は,殷とはまったく異なります。彼らは「封建制」と呼ばれる精緻な支配システムを作り上げました。

  • 殷:邑制国家/都・殷墟(大邑商)
  • 周:封建制 /都・鎬京

 封建制とは,「周王が一族・功臣に封土を与えて諸侯とし,諸侯はその見返りに軍事・貢納の義務を負う」というものです。王が息子や兄弟に新しく邑を与えて独立させるので,単に分家と考えてよいです。周王や諸侯の一族のことを「宗族」と呼び,そのうち王族など本家の宗族を「大宗」,諸侯など分家の宗族を「小宗」と呼びます。諸侯はさらに一族・功臣に封土を与えて「卿・大夫」とし,卿・大夫も一族・功臣に封土を与えて「士」としました。こうして分家を繰り返し,枝分かれした宗族が数多く生まれるとともに,周王→諸侯→卿・大夫→士という階層的な身分秩序が生まれました。なお宗族の構成員は「宗法」と呼ばれる一族の掟を守らなければならず,これが諸侯や卿・大夫・士に対して法律のような働きをしました。


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